被爆者の方とお会いして2

森下さんは1945年当時、中学3年生でした。
その時点で日本の戦いは泥沼化していたのですが、そんなことは
知らされることも無く、子供に食べさせることに苦労している母親が
「こんなんじゃ、日本は負ける」というと
「そんな事言うもんじゃない!」とたしなめるような教育をされていました。
そんな中、学童疎開が実施され、中学校以上の授業は停止するという
法令がしかれ、中学生は学徒動員で労働力としてかり出されていきます。

森下さんは東洋工業(現在のマツダ)で兵器などの部品を製造していましたが、
そのうち材料も底をつき、今度は建物疎開にかり出されます。
建物疎開とは空襲時の被害を広げない為に最初から家を取り壊しておく
という作業のことです。その頃は木造が多く、柱にひもをくくって引っ張って
倒していました。

今でも平和大通りとしてそれが残っています。

sesa0271.jpg
赤い線が平和大通り(100メートル道路と言われる)

日本中の主要都市が空襲を受ける中、広島だけが何故か空襲されない
という状態で、皆不気味さを感じていたようです。

1945年8月6日、森下さんは、医者から脚気の診断を受け休みたかった
けれども、父親に明日から休めと言われ、しぶしぶ出かけたそうです。
結果的にいうとそれで、命が助かる訳ですが、見送る母親とはそれが
最後になります。

投下前、森下さんは比治山の麓のちょうど100メートル道路の端のところに
70名が集合し、建物疎開の作業の説明を受けていました。
爆心地から1.5km離れたところです。

そして、8時15分。

森下さんはその瞬間の様子を次のように表現されています。

サァーッとまわりに炎の雨が、すっぽりと包まれたわたし。いえ、
巨大な溶鉱炉に投げ込まれたと言ったほうがいいでしょう。


sesa0253e.jpg
その瞬間を森下さんが描かれました。

何が起こったのか全くわからなかったそうです。

よく、原爆を『ピカドン』と表現しますが、
それは、ピカっと光って、ドンと音がするからそう言われます。
しかし、原爆下では、光・音・熱そして放射能が同時にやってきます。

とにかく熱はすごく、4000度の熱で瞬間的に35万人もの人が焼かれました。
その日のうちに14万人が死亡します。まさに巨大な溶鉱炉なのです。
実際の数値では太陽以上の熱さです。

森下さんは瞬間的にしゃがんだと言います。
そして、練習させられていた、目と耳を両手でふさぐ動作もします。

爆心地、1.2km以内にいた人はやけどを遥かに超えた、
細胞の内部組織を破壊された状態になり、死に至っています。

熱の次にやってきたのは爆風です。

一瞬で空気が膨張し、そこに真空状態が出来、爆風が発生しました。
真空状態で、目の玉が飛び出した人もいます。
そして広島の建物が全壊し、鉄の扉もひん曲げられるくらいですから、
凄まじい風です。

爆風では家屋や人が飛ばされたと同時に、飛び散ったガラス片が
大火傷をした体に突き刺さりました。
痛いという生易しいものではないことは想像出来ます。

でも、森下さんは痛みを感じなかったそうです。

その時点では、無意識で異次元に迷い込んだようになり、
『考える(思考する)』ことが出来なくなりました。

続きは次回に書きます。
2008年08月12日 | Comment 0 | ピースヒロシマ
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