被爆者の方とお会いして3

原爆が落ちた時、キノコ雲(原子雲)が出来ます。
僕の母親も遠くで見ていました。
その雲を見て「きれい」と思ったそうです。

でも、雲と言いますが、その中は火柱なのです。
その時、森下さんは溶鉱炉に投げ込まれた状態だったのです。

その雲は多量の放射能を含んだ細かな塵が爆発の上昇気流で
吹き上げられて出来た雲です。

雲に覆われた広島の街はどういう状態だったのでしょう。

誰も原爆のことは知りませんでした。
何が起こったのか誰一人まったく理解出来なかったそうです。

sesa0253d.jpg
原爆直後の状態を森下さんが友人の話を元に描かれました。

爆発が終わった後、不気味に静まり返っていたそうです。
そして、冬の夕暮れのような暗さでした。
森下さんは無意識のまま周りの人の進むまま、川に入ります。
しばらくの沈黙の後、うめき声や泣き叫ぶ声が、低く、遠く、
蚊が群がって鳴くように森下さんの耳に伝わってきました。

友人の顔の皮膚がむけているのをただ呆然と見つめていました。
別次元に入り込んだような感じだったのです。

その後、夢遊病者のように道でなく、崖を登って比治山に登ります。
山の上から市内を見渡すとそこには何もありませんでした。
でも、森下さんの目にはその光景がただ映っているだけでした。
考えることが出来なかったのです。

山を下りると、向こうから、帽子の跡を残して皮膚がずるっとむけた
河童のような兵士が、手をカマキリのように前に出してぞろぞろと
やってくるのが見えました。森下さんは、その時初めて
「とんでもないことが起こった」と異常さに気付きます。
それと同時に全身を痛みが襲ってきました。

「とにかく家に帰ろう」と森下さんは歩き始めます。
その頃にはそこら中で火の手が上がり、空気自体が熱の壁となって
行くてを阻みます。

そして、いたることろに皮膚が垂れ下がり、目がむけ、口がはれ、
黒いあぶくを吹き出した死体、また死体。
ガード下には黒こげになって死んだ子供がミミズのようになって
ころがっていました。それはひどい光景でした。

森下さんは、火の手が収まるのを待ち、夕方になって
ようやくなんとか家にたどり着きました。

しかし、石の手洗鉢を残して家は焼け落ちていました。
その時はその瓦礫の下で母が焼け死んでいるとは知るよしもありません。


1945年当時の広島の地図を見て下さい。
sesa0253.jpg
赤い点は爆心地、赤い線の内側は原爆による全壊・全焼の範囲です。

森下さんはA地点(爆心地から1.5km)で被爆し、
比治山(Aの右側の緑の部分)に行き、広島駅(B地点)を経由して
C地点(家のある付近)まで歩きました。

この時点では、まだ戦争中なのです。
いつ、次の攻撃が来るかわかりません。

とにかく、逃げなければいけません。
森下さんも火傷の痛さから、手を幽霊のように前にもたげて歩きます。
なんとか、電車に乗ることが出来ました。

続きは次回に書きます。
2008年08月14日 | Comment 0 | ピースヒロシマ
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